2012年06月26日

集客の極意! お化け屋敷になぜ人は並ぶのか?

五味弘文著「お化け屋敷になぜ人は並ぶのか?」 角川文庫

「集客の極意!」という赤い帯紙につられて、手に取った本が面白かった。

サブタイトルが「恐怖」で集客するビジネスの企画発想

その中で、「ウン!」そうだなと思ったところを抜き書きすると。

お化け屋敷や絶叫マシンは、恐怖を提供してお客様に楽しさを味わってもらうアトラクションである。けれど、ただ恐怖を演出するだけでは誰もそれを体験したいとは思わないだろう。そもそもる恐怖とはネガティブな情動である・・・中略

それを使って楽しみを提供しようとするには、何らかの条件が必要になってくる。そうでなければ、日常で経験する怖い体験と同じになってしまう。

では、恐怖のアトラクション化を成立させている絶対条件とはなんだろう?
それは「信頼」である。・・・中略

そこにあるのは「信用」ではなく「信頼」であることを忘れてはならない。

「信用」というのは社会的なもの。「信頼」とはもっと個人的なもの、誠意や誠実さ、真摯さ、正直さなど、その人の人間性ともいうべきところに根拠を置くことが多い。

土地を多く持っている資産家が、社会的のなかで信用されていながらも、信頼されているとは言い難い事例もたくさんある。

絶叫マシンで場合、自分でコントロールは一切できないで、完全に自分の身を「委ねる」しかない。だからここでは、「信用で」はなく「信頼」がそんざいしている。

全日空のキャッチコピーも「信用の翼」ではなく「信頼の翼」となる。

中略・・・・非日常まで日常の中に含んでしまった社会は、さらに閉塞状況に進んでいく、非日常が日常の中に増えて閉塞感がなくなったかというとむしろ逆、むしろ閉塞感が広がり退屈に感じる人の方が多くなるだろう。

その閉塞感を破れるものがあるとすれば、祝祭性なのかも、わざわざどこかに行って
大勢の人と何か刺激の強いものを体験する。

お祭りを単なる非日常性と捉えていては現代の祭りを必要性を掴まえることはできない。お祭りの最大の意義は「共感」である。しかし、多くの人が集まるという環境は
身体的には快適なものとは言えない。むしろ、多少の身体的な快適さは我慢しなくてはならない。

そう考えると、共感という喜びを得るためには、多少快適さを捨てる必要がある、ということができる。

共感の喜びを幸福感と言い換えることができるのなら、幸福とは多少の快適さを捨てることによってしか手に入れることができない、ということになるのではないだろうか。

・・・・今回は手抜きかなぁ〜・・・でぁ